*A boy in the dawn*


「昔、教会には多くの人々が逃げ込み、多くの人達が命を失ったんだよ。」
 二年前亡くなった祖母がよく言っていたことだった。祖母がどんな人生を歩んできたかはあまり知らないが、ただ、辛い日々を送ってきたことは確かなのだろう。彼女がその事を語る時は、必ず目を細めて、どこか遠くを見つめていた。それは私に見えるものではなく、彼女にしか見えないヴィジョンであったのだろう。そうしてまた、彼女はある意味で教会を信じてはいなかった。ある意味でというのは、彼女はクリスチャンではないと私に言っていたけれど、マリア様は彼女の生活の中に深くしみついてるようであったからだ。私がまだ学校に通い始めるようになる前、園芸を趣味にしていた祖母の後について土いじりを手伝っていたときのことだった。種に土をかぶせ、水をかけた後に祖母は手を胸の前で合わせていたので幼心に不思議に思った私は彼女に何をしているのかと聞いたのだ。そうすると、彼女は母なる大地の女神、マリア・マグダラに花々の豊穣をお祈りしているのだといっていたのだ。そうして、根底のところではマリアを信じている彼女がなぜ教会を毛嫌いし、クリスチャンであることを否定しようとしたのだろうか。その疑問は彼女が亡くなった今も私の中に強く残っていた。なぜか、特に最近になってそれが強い印象を持つようになったのだ。
 しかし、それも当然のことかもしれない。私は最近夜に抜け出して教会に行っているのだ。神様にお祈りにいくためではなかった。実際祖母のいうのと同じように私もクリスチャンではない。精神的いみにおいてだけれど。ただ、形としてのクリスチャンではあるけれど、信仰心はといわれたら、教会には行くことがあるというしかない。何千年も昔の人間にはさほど興味がない。私には今というこの時の方が重要なのだ。そう、夜にいくのはある人との出会いがきっかけだった。
 ある夜のことだった。私は日曜日に教会にたまたまでかけたときに、座席に教本と一緒に小説を置いてきてしまったのだ。まだ読みかけの本だったことを思いだし、急に読みたくなり両親の目を盗んで教会に行ったのだ。足早に教会の中に入り、座席を探し本を見つけてほっと胸をなでおろした。そうして教会の中を見まわした。夜の教会はどんな感じなのだろうと好奇心があったからだ。見まわすと祭壇近くの座席に座っている少年がいた。少年といっても私よりも少し下の8年生といったところだった。こんな時間に教会に人がいるというのは不思議に思われた。そうした私もこんな時間にいるのだが。好奇心にかられ、彼に話しかけたのだ。
「こんばんは。何をしているの?」
「…あなた、何日か前に教会にいた…。」
 初めて会ったつもりだったのに相手が自分のことを知っているとは思わなかった。
「私のこと知っているの?」
「あなたをみたんだ。お祈りをしていたね。けど、ひどくつまらなそうだった。何を考えていたの?」
「…確か何も考えていなかったと思うわ。」
 彼はしばらく間を空けてから言った。
「そんなことできるものなの?僕はずっと祈っていたんだ。十字架に磔られたイエス様のことを考えて。」
 言葉に窮しながら答えた。
「…人にもよると思うわ。」
 しばらく、お互い会話をかわさず、私は彼の隣の席に座った。
 そして、はじめに話しを切り出したのは彼のほうだった。
「…本当はね…」
「本当は?」
 私は少し首をかしげて彼のほうをむいた。
「…本当はここで亡くなった妹のことを考えていたんだ。…どうしてだろう、僕、一生懸命お祈りしたんだ。妹を助けてくださいって。けど、助けてもらえなかった。」
「…。」
 私は何をいったらよいのか分からずただ黙りこくっていた。
「…僕が良い子じゃないからかな。だから、神さまは僕のお願いをきいてくださらなかったのかな?」
 彼は、神様が妹を助けてくれなかったのに、それなのに神様を信じて祈りつづけているのだろうか。私にはとても矛盾しているように思え、彼の真意をつかめなかった。
「私があなたと話している限りでは、あなたが良い子じゃないようには思えないけれど。どうして?何か悪い事をしたことがあるの?」
「沢山した。嘘もたくさんついたし、妹と喧嘩をしたこともある。悪い子でしょう?神様はこんな子助けてはくれないんだね。」
「誰だって、嘘をつくし、人が人といればお互い理解できない面とかでてくるわ、それが喧嘩になることもあるし、それらのことは悪い事ではないと思うわ。人間らしいことだし、人の罪というのは悪意をもって人を傷つけることよ。ただの諍いはとても普通のことで罪にはならないのよ。神様にあなたはお祈りするのでしょう?それはとても優しい感情だわ。その優しさを持っていれば神様があなたを見捨てるなんてことはしないと思うわ。」
「本当に?…そう思う?」
「ええ。」
 私は正直、それが確かなことだとは思っていなかった。けれど、その言葉が彼のためになれば良いと思っていたし、彼が信じるかぎり、それは彼にとって本当になるだろうから、嘘はいってはいなかった。
「…お姉さんのいうとおりなら、きっと僕神様に助けてもらえない。」
「どいうこと?」
「僕が妹を殺したんだ…。だから、神様は僕の願いをきいてもらえなかったんだ。」
「…なぜ、妹さんを殺したの?」
「妹が母さんを殺したんだ。母さんは心臓が悪くて入院していて、久しぶりに帰ってきたのに、…あの日妹がワガママをいって一緒に出掛けて行って……もう二度と、あの優しい声で僕の名前を呼んで、抱きしめてもらえなくなったんだ。また一緒に過ごす事ができると信じていたから、しばらく会えない事にも堪えていられたのに。…許せなかったんだ。…でも殺したかったわけじゃなかったんだ。ただ憎らしくて、気持ちが抑えられなかったんだ。」
「…妹を殺してしまった自分を悔いているのね。罪を感じている。殺してしまったと気づいた時、罪を犯してしまった自分をずいぶんと責めたのよね。…だから神様に妹を助けて欲しいと祈った。それで、今も祈りつづけている。」
 彼が罪を犯した事をひどく悔やんでいるのは、彼の顔を見れば一目瞭然だった。ずっと彼はそれにとらわれているのだろう。  彼の肩は震え、頬に涙が伝っていた。私は彼の背中をさすった。
「あなたは確かに妹を殺すという罪を犯したわ。それは消えることのない、あなたの罪だわ。けれど、その罪を犯したのは、例え事故であれ、母親を殺すという行為を犯した妹を許せなかったからだわ。それはあなたが母親を失い、深く傷つけられて、平静さを失っていたから、憎しみだけが表に出てしまったのね。それはあなたの母親を思う良心からの行為だったのよ。人は平静さを失うととんでもないことをしてしまうわ。例えば罪もそうね。
平静を失っていたからといって罪は消えるものではないけれど、その罪は悪意からではなく、あなたの母親を思う良心からだったのよ。あなたが神様に見捨てられることはないわ。妹が助からなかったのは、神様にはその力はなかったからだし、また、あなたに罪に気づかせるためでもあったのかもしれないわ。罪を償いたいという、妹が生きていて欲しいと言う感情、つまりあなたの中に良心がある限り、祈りをつづけていれば、神様は見捨てることはないわ。…だって、神様は信じて祈るものを許してくださっているんだから。…そう教わったでしょう?」
 私は信仰心もないのに、よくこれだけのことがいえたのだとおもう。けれど、これも彼の助けになってほしいと言う気持ちからだ。信じるというのは、案外そんなものなのかもしれない。誰か信じる人の助けになるというもの。彼のためになるならば、信仰心は彼にとって良いものになるだろう。
「…神様が僕を許してくれるの?」
「あなたがなんであろうとね。あなたは自分の良心を信じればいいわ。罪は消えるものじゃない。だからその罪を一生持つ事になるけれど、それでも償っていけると思う。あなたは良い子だわ。良心という優しい心を持っているんだから。」
 しばらく、真意を確かめるようにじっと私の顔を見つめていた。
 そうしてやっと、彼は落ち着いた顔をした。
「…僕は罪をつぐなっていけるんだね。」
「そう。」
 彼は座席を立ち、教会をでていこうとした。そして扉の前でたちどまり、後ろを振り向いた。
「ありがとう。…実はお姉さん、瞳の虹彩が妹のものとそっくりなんだ。お姉さんみたいな濁りのない透き通った空の色みたいな青色。だからお姉さんに話しかけようと思ったんだ。ありがとう、話しを聞いてくれて。」
 私は彼に返事の代わりに微笑んだ。
 彼はそれだけいうと、そのままそこで消えてしまった。…そう、彼はもうこの世にはいない少年だったのだ。ただ、心残りがあってずっとここに訪れていたのだ。きっと彼はそのわだかまりが解けたのだろう。
 しばらくそこに立っていた。そこから動きたくなかった。そこを1歩進むだけで彼がいたということがすべてなかったことになってしまうような気がして動けなかったのだ。彼を忘れるということがとても恐かった。
 そのとき、突然教会の扉が開かれた。現れたのは予想をしていなかった人物だった。それは両親だったのだ。私がいない事に気づき、私の部屋のメモをみて私がここにいることに気づいたのだ。そう、もしものときのために本をとりにいったことをかいておいたのだ。
私は両親に叱られるのを覚悟で二人に近づいた。
「…なつかしいわ。母さん、つまりあなたのおばあちゃんも夜に教会にきたことがあると話していたの。そこであった少年についても。結局彼を救う事はできなかったと後悔していたけれど。私は恐くて絶対夜に教会などにいかなかたけど…あなたはそれをしてしまったのね。」
「おばあちゃんも?」
「そう。あなたは聞かなかったのね。」
 そうして、私は両親に怒られることなく帰っていった。
 それから1週間に一度だけという許しを得て、私は夜の礼拝に出向いていた。ただ、いなくなってしまった彼を忘れないために。そして、彼が救われることを祈るために。それが私にできる唯一のことのように思われた。神への祈りではなく、彼への祈りだった。
 今夜もそうした月夜だった。誰もいない教会。ただ、私の歩く足音と、風の音だけがした。祈りを終え、教会を出る直前で祭壇のほうをみた。その近くの座席に彼がいるような気がして。…もちろん、彼はいなくなったのだからいないのだ。けれど、私が忘れない限り、彼はいたということになる。名前も聞かないまま、夜明け前に旅だって行ってしまった少年。今夜もなにも起こらない平穏な夜を家路につく。


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