ヴォイセス




 あたりはどこまでも暗く、細く鋭い月より降りる灯りがともっていた。風が何処からか 吹き、古い廃屋となったかつての聖堂の中を巡った。寝苦しさを感じるような今夜のよう なときは、たびたび、この聖堂を訪れた。この聖堂は蜘蛛の糸や埃が所々にあるが、それ を気にせずにすむほど、静かで、ひんやりとして、居心地がよかった。ただ、体を横たえ るために、黒い薄手の生地のストールを忘れなかった。この聖堂の静けさは、寂しさというよりも、 安らぎを私にあたえてくれる。まるで、自分のためだけの礼拝堂のようだった。  聖堂のかつての信者たちの座席で私は一人で、胸の上で十字を切り、目を閉じ、祈りを 捧げた。司祭も、神父もいない、ただ私だけの礼拝。私は神や霊のようなものは信じては いないが、この聖堂では無条件に祈りを捧げたくなる。こうして祈るとき、自分の気の済 むまで祈りを続けることにしている。頭の中には、真暗な闇が広がる。あたりに広がる夜 の世界のような。
 祈りを終えて、私は聖体拝領を受けるように、かつて祭壇があっただろう場所へと向か い、そこで膝を地につけ、腰は下ろさず、胸の前で、手を重ねた。神はいるのだろうか。
そうならば、なぜ私は幸せではないのだろう、たびたび家族の目を盗み、夜にこっそりと この聖堂に訪れるのか。
 突然、背後から足音が聞こえた。振り向いてみると、一人の青年がいた。
 「また、夜の礼拝に来ているの?」
 何日か前に、偶然この聖堂に入ろうとするのを彼に見つかり、そのとき持っていたリネ ンの布が私の虚言を裏付ける証拠となり、事情を知られてしまったのだ。彼はこの地域の 人々が訪れる聖堂の司祭の子どもで、私も顔見知り程度に彼のことを知っていた。ただ、 私のことをまだ、誰にもばらしていないことから、言いふらそうという気はないようだっ たが、そのかわり、度々、彼と顔をあわせるようになった。ただ、お互い、どうした理由 を持ってここへ訪れているかは、おのおのの胸の内にしまい、お互い追及もしなかった。
 「そう。今日も私の寝台は寝苦しくて。・・・ここで眠るしかないと思ったのよ。」
 「君の両親はそれを許しているの?」
 「まさか、・・・両親が起きる前に寝台に入り込むの。そういうあなたはどうなの?」
 「さあ・・・。」
 「さあ、・・・って、私だけに言わせて自分は言わないつもりなの?」
 「そうじゃないんだけど、本当に、何も言わないんだ、あの人たちは。多分、気づいてい るのだろうけれど。」
 「・・・そう。」
 つまり、これ以上きくなということだろう。確かに、私は自分のことを話したが、だか らといって、彼に話す義務ができるということにはならない。彼は私に聞いたけど、話し たくなければ、彼のように言葉を濁すことだってできたのだ。べつに、話すことを強要も されていなければ、条件を突きつけられたわけでもない。ただ、聞いただけなのだ。私は 質問に答えてもいいと思っただけなのだ。
 「けど、夜中に女の子が一人で出歩くのはあぶないだろう?」
 「・・・かもね。でも、不思議に、夜になるとここに足が運ぶのよ。つまり、私のための 寝台はここにしかないってことかもしれない。」
 「強引な論理だね。」
 「我ながら、そうはおもうのだけれど、ここって居心地がいいのよ。本能的なものかもし れないわね。」
 そういい終えると、一瞬、彼は暗い顔つきをした。そうして、彼はため息をついた。私 は、彼の整った顔立ちが、月に照らされている様子をじっと観察した。いままで、自分の ことを一切語らなく、人の良さそうな顔ばかりをしていたが、めずらしく、表情を崩した からだ。彼は、この聖堂の窓に目を向けながら、言った。
 「知ってる?」
 「何を?」
 「数年前、一人の少年がここで死んだんだ。」
 そういうと、表情もなく、彼はこちらを向いた。そのとき、私は、彼の顔立ちが恐ろし いほど整っていることに気づき、どきっとし、立ちすくんだ。
 「・・・おどかそうとしている・・・・わけではなさそうね。」
 しばらく黙り、深呼吸してから、彼に尋ねた。
 「私は知らないけれど、そうなの?」
 「ああ。・・・もし生きていれば、僕らよりも少し下の年齢だった。」
 「・・・あなたは彼を知っていたということ?」
 「・・・・。」
 彼はまた黙り込んだので、きっとまた私は、話したくない核心に触れてしまったのかも しれない。こうしていままで、何度の沈黙が私たちの間に訪れたか分からない。私は、話 が直球すぎるきらいがあるのかもしれない。私は、彼のところから少しはなれ、座席に座 った。
 彼はかつて祭壇のあったらしい場所に近づいた。そうして、そこに立てられている十字 架に触れた。そこで彼は片膝をつき、祈りを捧げた。いままでも彼はここでは、片膝をつ いて祈りを捧げていた。多少は彼のその行動を奇妙に思っていたが、ふと、それに何か理 由があって、続けているのだと思えた。多分、何かに対する、反抗か、または罰なのかも しれない。
 「僕は数年前、彼とここで、今みたいに夜を抜け出して、こっそり酒を飲んでみたり、煙 草を吸ってみたりして、度々来ていたのだけれど、ある日、彼はこの聖堂の上に上ってみ ようといったんだ。危ないからよせといっても、聞かず、しまいには、僕が臆病だと言い 出す始末で、一緒に上らないわけにはいかなくなった。そうして、あがってみると、空に、 嘘みたいに星がたくさん散りばめられていて、きれいだった。いままで、夜空を意識して みたことがなったから、単純に感動したんだ。」
 「そうか、綺麗だったろうね。この辺は電燈があまりないから、星がたくさん みえるのよね。」
 「そう、そのことに、そのとき初めて気づいた。そんなにも美しい場所に自分はすんでい たんだってね。」
 私は彼がそのときみたであろう、美しい星空を思い浮かべた。きっとすばらしかったに 違いない。夜に見る空は。
 「・・・けど、そのあと彼はそこから降りるのに失敗して落ちたんだ。」
 「・・・・。」
 「彼が降りようとしたとき、ちょうどここを巡回に来ていた警備員に見つかって、僕らは 怒鳴られた。それがきっかけで、彼は足を滑らせて落下したんだ。・・・最悪にも、彼は打 ち所が悪かったらしく、そのとき意識がなく、そしてそのまま意識が戻ることはなかった。」  私は彼の話に何もいうことができなかった。
 「それが、ここで死んだ少年の話さ。」
 「・・・だから、ここへ来ていたの?」
 「・・・・。」
 沈黙は、イエスといっているも同じだ。
 「・・・片膝をついて祈るのは、あなたへの罰?」
 私がそういうと、彼は、私のほうへ振り向き、面食らったような顔をした。そのあと、 彼は黙り込んだまま、目をまた、祭壇の方に向けた。しばらく沈黙が続いた。私も彼の隣 へ両膝をつき、腰を落とさず立ち、祈りを捧げた。ここで死んだという彼のために。頭に、 ラテン語の死者への安息を祈る曲が浮かんだ。『慈悲深き主イエスよ、彼らに安息を与えたまえ、 永遠の安息を』。  「なぜ、人は祈るのかしら。」
 「君がそれをいうのか?」
 「神の愛があるのなら、なぜそれを信じようとせず、祈りを捧げて、形を示そうとするの かしら。」
 「じゃあ、君はどうして祈るの?」
 「単純に、安心できるから。神とかの存在って正直言って、よく分からないわ。けど、 不思議なことに、祈らずにはいられないのよ。」
 「人は完璧じゃないからな。たしかに、祈りは救いを意味するけれど、それだけじゃない。 人は祈るとき、神への感謝を祈るんだよ。」
 「・・・じゃあ、どうしてあなたは、罰を受けているの?」
 「君が祈るのと同じさ。・・・あの事故が起きて直ぐは、警備員をのろったよ。・・・けど、 日々が過ぎていくごとに心がくるしくなっていった。僕は、もし、彼が上るのを止めてい ればって、あの日いかなければ、周りをもっとちゅういしていればと、後悔が浮かんでど んどんとそれが重みを増していったんだ。」
 「けど、それは・・・。」
 「いおうとしていることは分かるよ。皆そういうんだ。けど、これは理屈じゃないんだ。
なんと言われても、やっぱり、自分のせいだとしか思えなくなるんだ。・・・僕が彼の変わ りになっていたらどんなにいいかと思う。」
 私は胸が痛んだ。この聖堂に来ることが彼にとっては、こんなにも重い意味があって、 罪を懺悔するかのようにくるのだ、許されることではなく、罪を忘れないようにするため のように。そうして、亡くなってしまった人のための祈りを捧げているのだ。彼は、生き ようとしているというよりも、罪を償う日を待っているかのようだった。まるで、死を待 ち望んでいるかのように。
 「誰かに罰して欲しいの?」
 「・・・そうかもしれない。この聖堂にくると、寂しさで一杯になる。まるで、神が僕に 罰をあたえているかのようで、気持ちが少し楽になるんだ。」
 「あなた、さっき、神に祈るのは感謝の気持ちからだっていったのに、神様はあなたに罪 を与えるの?」
 「僕の父、つまり、市の中心にある聖堂の司祭だけれど、その司祭がいうには、神の愛は、 人々の罪を許し、皆に愛をあたえるのだというけれど、昔はそれを信じていたけれど、今 はそれがどんな意味かさえ分からない。司祭は今は何も言わないのだけれど。」
 「罪を持つ人は、告白することで、神から許しを得る。告白っていうのは、生易しいもの じゃないわ、もっと辛くて、苦しいもの。だからその告白は神の試練なのかもしれないわ ね。その試練を絶えることが、一つの罰で、一つの償いの形なのかもしれない。それが、 懺悔なのよね。そう考えると、神さまは、人々を許してくれているのかしら、それとも罰 しているのかしら?」
 彼はまぶたを閉じ、両膝を地へつけた。手は祈りの形をとりながら。私は立ちあがり、 十字架を越えて、前へ進んだ。ガラスのなくなってしまった窓がそこにあった。窓の先に は、木々が立ち、薄暗く、静けさを保っていた。
 「僕は自分を罰する神が愛しい。」
 私は彼を振りかえった。懺悔を聞く聴罪司のように。
 「こんなこというのは、なんなのだけど・・。」
 「何?」
 彼は私を見上げた。
 「言ってくれ、気になるから。」
 「あなたが罰されたい神は、ここで無くなった少年ではないの?」
 彼は表情を一瞬曇らせ、顔をかためた。彼は黙り、私も黙った。夜風が冷たく、私はも ってきた、綿の布を肩にかけた。
 「君はどこまで知っているんだい?」
 彼は立ちあがり、座席へ座った。
 「何も。」
 「けれど、そうかもしれないな。ただ、彼に許して欲しいのかもしれない。けれど、本当 に自分がどうしたいのか良くわからないんだ。わからない、未消化なまま、僕はここへき ていたんだ。」
 「・・それは私も同じだわ。結局、どうしてここにきているのか分からないの。両親への反発なのかもしれない。 けど・・・本当はどうしてかなんて分からないの。」
 「そうか。」
 私達はそれからもう一度祈りを捧げた。
 多分、ここで、私達がまた、次にここで再会することを予期するような別れを言えば、 私達は依存と言う言葉で私達はここに縛られてしまうような気がして、言葉を選んだ。
 「おやすみなさい。」
 「今夜は帰るの?」
 「そう、今日はちょっと自分のベッドが恋しくなってきたのよ。だから帰るわ。もうすぐ、 夜も明けそうだし。・・あなたも、遅くならない内に・・っていうのは変ね。まあ、ほどほ どにして帰ったほうが良いと思うわ。」
 「ああ、おやすみ。」
 私はそのまま帰り、気づかれないように壁を伝い、部屋のベッドへ入った。
 翌朝は、日曜で、ミサのために出かけることにした。両親はこの頃は毎週礼拝へ出かけ ることはなく、私もそうだったのだが、なぜだかわからないが、急に出向いてみ たくなり、朝食も早々に、この市の中心にある聖堂へと向かった。
 教会離れという言葉を最近では言われてるが、聖堂の中は充分に人がいた。昨夜の彼もいて、礼拝の手伝いをしていた。 私に気づいたようだったが、挨拶をすることもなく、お互い知らない人のようにふる まった。

   あれから、随分と時間が過ぎたが、まだ、彼はあの聖堂へ通っているのだろうか、夜の 懺悔のために。私はあの後どうして分からないが罪悪感を感じ彼に会うのが億劫になり、あそこへは行かなくなり、今彼がどうしているのかを知 る術はなかった。丁度、あの日の夜から、一年が経った。私は何かの儀式でもあるかのよ うに、黒いワンピースに、首に十字架を掛けあそこへ赴いた。もちろん、家族が寝静まっ た頃を見計らって。
 相変わらず、この聖堂は静寂が支配していた。私はあの頃と同じように祭壇へと近寄り、 膝を地につけ、十字をきり、祈りを捧げた。それから、帰ろうとしたときだった。どこか からか歌音が聞こえてきた。これは、ミゼレレ―――歌っているのは、ソプラノ、それも、 繊細な少年の歌声。音が近づくと同時に足音がした。それはまぎれもなく、彼だった。
 「久しぶりね、この歌は?」
 「どこかの教会の聖歌隊の録音。古い物だけれどね。」
 そういって、小さなテープレコーダーを座席に置いた。
 「いままでもずっとここへ来ていたの?」
 「そう。今日は黒ミサ?」
 「そういうあなただって、真っ黒なスーツじゃない。」
 「今日は彼の亡くなった日だから。」
 「……そのテープはどうしたの?」
 「昔、叔父にもらったんだ。気にいって、ずっととっておいたのを思い出して、聞こうと 思ってもってきたんだ。」
 「綺麗な声。それでいて、なんだか、悲しいわね。ミゼレレ、ラテン語の、『憐れみ給え』 といういみだったわね。………あなたは、まだ、ここへこなくちゃならないの?」
 「じゃあ、君は?」
 「……分からないわ。」
 私は、完全にこの聖堂を離れることができるだろうか。私は不安とともに、気だるさを感じた。 彼の言葉はまるで、そうすることが不可能だというように 私の心に突き刺さる。
 静寂がこの聖堂と、彼と、私の間に響き渡る。静謐な歌声。声だけが響く。
 私も、彼がこの聖堂から離別できなかったように、ずっとここへとどまりつづけるのか もしれない。・・・いいえ、本当は彼がとどまるなら私もとどまりたいだけなのだ。今なら 分かるあの時の罪悪感の理由を。彼の秘密を聞いてしまったからじゃない・・・あの時、私は既に彼を ・・・。
天に、地に、広がる闇に、静寂を訪れさせる、声。
 それをきくだけで、すべてがゆるされているかのように感じた。

―――ヒソプをもてわれを清めれば、われ清くならん。われを洗いたまえば、雪より白くならん。(詩篇50より)――

THE END

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